プロフィール(3)

こだわりを通じて、人と人を、人と物を繋げる
つながりびと『はるさん』です。

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毎週火曜日は、自己紹介です。

きょうは、「河合塾~大学時代」です。

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河合塾時代 1983年~1984年

迷惑な選択

唯一合格した地元私立大学に入学金を納めてもらいました。
でも、入学直前で浪人をする決断したのです。

大学の受験料、東京までの交通費・宿泊費、行かない選択をした大学の入学金に加えて河合塾の授業料を黙って出してくれた父親には感謝しかありません。

父親は、ぼくの選択に反対することはなかったのです。

晴れて河合大学の学生になるのだが、勉強だけに打ち込めた一年とは言い難かった。

再び、気胸に

地元国立大学志望であったが選択したコースは京大選抜コース。浪人する多くの同級生とは違った校舎だったのが選んだ理由だった。誘惑から逃れるのが目的だった。

今年こそはと張り切って勉学に励げもうとしていたが、受験生の山場の夏を迎える前に水をさす出来事が起きたのです。

再び気胸になり、再発リスクが高いからと手術を勧められ、2週間程度の人生初の入院生活を送ることになる。

手術前に剃毛をしたのと、手術後目が覚めると尿管に管を入れられていたのが妙に恥ずかしかった。

そのころはインターネットなどもなくやることがなく、年の近い看護師さん巡回に来てくれたときに話をするのが唯一の楽しみだったような記憶が。。。

LOVE LOVE DASH出演

どういう経緯だったのか覚えてはいないが、ローカルテレビ局の合コン番組に出演をしたのです。

その当時、全国放送では「フィーリングカップル5 vs 5」という番組をやっていたのだがそのパクリのような番組です。

高校からの同級生で3人とも浪人生というのが出演できたポイントだったのだろう。

ぼくは運よくカップル成立したのですが、相手はきゃぴきゃぴの女子大生、当然相手にされることも連絡先を聞くこともなく収録会場を後にしました。

カップルになった女性はどことなく育ててくれた母親に似ていたのです。

いや~、それにしても初々しいね~。

勉学に励んだ半年

その後は、適度な息抜きをしながらもおとなしく勉強に励んでいたと思う。

河合塾の自習室や図書館の閲覧室に籠ってひたすら過去問と格闘していた、、はず。

受験本番

本命の地元国立大学と東京の私立大学を受験することに。

国立大学受験には共通一次試験を受ける必要があり、その年の試験日は成人式と重なり高校を4年行って浪人している僕は成人式の式典には出れなかった。

試験の帰りに区役所へ記念品だけを受け取りに立ち寄ったのを覚えている。同級生と一緒に祝えなかったのが今でも少し心残りです。

東京に受験に行った時に大雪が降ってJRが乱れて試験開始が繰り下がったり、受験の合間に東京いる友人の誘惑に負けてしまったり、トラブルはない事もなかったが、無事に全日程の試験を終えることが出来ました。

1年余分に時間を貰ったおかげで、志望校に合格することが出来やっと大学生になることができました。

大学時代 1984年~1988年

2年遅れで大学生に

地元の大学は第一志望ではあったのですが、学科は第一志望の「航空工学科」ではなかったのです。飛行機を作りたかったんです。それと鳥人間コンテストへの憧れも。

私大の「航空工学科」に合格していて最後まで迷ったのですが、

親父の一言で地元の大学へ進学することに決めたのです。結果、それが正解だったと思っています。(私大を選んでいても正解だったと言っていると思うけど)

同級生は、夏休みにバックパックでヨーロッパを旅したり、ウインドサーフィンに熱中したり、バント活動に熱中したりしていました。

一方、自分はサークルなどには目もくれず、バイトと麻雀と彼女と遊ぶのに明け暮れてました。

大学入学後、彼女が居るのに再びLOVE LOVE DASHへの出演もしました。

愛車はその当時一世を風靡したファミリアハッチバック(赤では無かった)。丘サファーと言われてたやつです。
土足禁止、シートにはTシャツ、ベッドレストにはバンダナ、センターコンソールには無線機、ダッシュボードにはヤシの木🌴。これがその頃の定番でした。

この車で友人と無線で話をしながら通学したり、夏は若狭湾の海まで、冬は飛騨方面のスキー場までドライブしてでかけていて、僕の学生生活には欠かせないものでした。 

母親との別れ

1回目は幼稚園の頃に産みの親に置いて行かれ、2回目は高2の夏に交換留学から帰ってきたら育ての親は家に居なくて(割と近くのアパートに住んでたので会いに行っていました)、そして3回目は死別。

それは2年生の夏のこと、母は腸閉塞で入院しました。病院は大学に近い事もあり、授業か終わってアルバイトへ向かう途中にお見舞いに通った。
直ぐに退院するんだろうと楽観視してたので、病院の駐車場に靴を忘れて(土足禁止にしてたので車外で靴を脱いだ)とりに行ったもらうなんてお願いもしたりしました。そんなに長くない入院のあと、ひっそりと亡くなってしまいました。

亡くなる直前は、試験中であまりお見舞いに行けてなく、なんか自分のことしか考えてなかったあなぁと少し落ち込んでました。

その当時は既に母親の居ない生活にすっかり慣れていたので居なくなった実感はあまり無かったと思う。

ロンブー淳の著書「母ちゃんのフラフープ」では

『誰もがそうとは言わないが、親とは二回、別れがある。一度目の別れは、子供が実家を出て行くとき。二度目の別れは、親がこの世を出て行くときだ。』

と語っているが、僕は実家を出る前に三度の別れを経験していることになる。

大学生活は続く

その後も大学生活は続くのだが、相変わらず親父との男二人の生活。3回目のLOVE LOV DASHの出演依頼があったのだが、流石に受ける気分ではなかったので断りました。

視聴者参加番組っていうのはテレビ局からのお願いで出ていることも多いんだなーってその時思いました。

不純な動機で英会話学校へ通ったり、合コンしたり、この頃になると宅麻雀の時は自分で飯を作り始めていた。
でも、そのおかげで英語は特になり英検準1級を取得できたり、簡単な料理も出来る様になったり、今振り返ると結構人生の礎ができた時期だったのだろう。

それなりに青春を謳歌していたのですが、

本分の勉強の方は元来の要領の良さから試験前に先輩から貰った過去問で勉強して、ぎりぎり及第点で単位を取っていた。

そんなんだから、大学院入試に失敗し就職することになる。

就職活動もすることなく、学校推薦の取れた広島の企業へ面接へ行くことになった。

 

プロフィール(4)へつづく⇒こちらからどうぞ (近日公開 7/13)

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